子ども時代のモノを処分
戸棚の奥から見つけたモノを処分しました。
小学校時代のリコーダー(縦笛)と、紙粘土細工です。
戸棚で眠っていた年数は多分、35年間くらい?
別に思い入れがあったわけではなく、捨て方がわからなくてそのままになっていたようです。
今はインターネットで自治体ごとに細かい分別の仕方を知ることができるので、ずいぶん便利になりました。
リコーダーが何でできているかなんて、考えたことなかったなぁ。
リコーダーは、素材としては「固いプラスチック」らしいので、私が住んでいる地域では燃えないゴミ扱い。
紙粘土細工は燃えるゴミでした。
持つとずっしり重たいので、「これを家庭ゴミとして出しても本当にいいの?」と一度は不安になりましたが、分別一覧にはっきり書いてあったので自信をもってゴミ回収に出せました。
こんなに簡単なら、もっと早く処分すればよかった!
要らないモノは、この調子でさくさく捨てていかないと。
私を含めた家族全員、これからどんどん身体が弱くなっていくことを考えると、早めにモノを減らしておきたくて焦ります。
私が終活を一旦お休みにした理由
以前、「終活」を意識しながら片づけをしたことがあります。
「私が歳を取っても大切にしたいモノってどれだろう?」
「最期まで持ち続けたいのは何だろう?」
そんなことを考えながらモノの仕分けをしていたある日、ぴたりと手が止まりました。
「死」を意識し続けることを、私の脳が本能的に拒否してしまったのです。
なんだか悪寒もするし、気分も憂鬱に。
私と同じように気持ちが沈んだり、「自分や家族の不幸なんて想像したくない」と思ったりして、終活自体が嫌になる人は多いそうです。
両親に「要らないモノは捨てて欲しい」とお願いしても、「老後に考える」と言うばかりで(70代の老後とはっ!?)ちっとも行動してくれない理由が、わかった気がしました。
年齢的に、私よりも両親のほうが、よりリアルに「死」が迫ってくるように感じるのでしょうね。
早々に終活疲れしてしまった私は、「終活」から「ただの片づけ」に切り替えることにしました。
終活は、人生の終わりのための準備。
できるなら、もちろんやったほうがいい。
でも、負担が大きいなら無理をしないほうがいい。
「終活をするべき」と考えると、義務感に囚われて疲れてしまいます。
自分にとっての心地よい部屋をイメージしながら「ただの片づけ」をして、現在の暮らしを整えているうちに、それが結果として「終活」になっていた。
私にはそれくらいのゆるさが、ちょうどよいようです。
まだまだ見つかる不要品
リコーダーと紙粘土細工を手放してほっとしていたところ、戸棚の奥にハーモニカが隠れているのを見つけました。
プラスチック部分に、彫って刻まれた名前入り。
これはまた厄介なモノが出てきました。
小学生当時、所有者がわかるようにハーモニカに名前を彫るよう、学校側から指示されていたんですよねぇ。油性ペンは、触っているうちに消えてしまうので不可で。
この名前を削って消すのが面倒で、いままで捨てずに放置されていたに違いありません。
ひと手間かけないといけないモノの処分は、大変だし面倒。
でも、これを手放せたらすっきりするだろうなぁと想像すると、やる気も出てきます。
さて、カッターか何か、名前を削れるものを持ってこないと。
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